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《日本古典への招待》奥の細道 前半講座 第1回~第7回

《日本古典への招待》奥の細道 前半講座 第1回~第7回

 『奥の細道』は、芭蕉(1644~94)のもっとも著名な俳諧紀行であると同時に、日本古典文学の代表作でもあります。芭蕉は元禄2(1689)年の旧暦3月27日、門人の曾良を連れて、江戸深川からみちのくの俳諧行脚に出発しました。8月下旬に大垣に着くまで、約5か月、関東・東北・北陸と、2400キロに及ぶ大旅行です。様々な歌枕や歴史上の旧跡をめぐり、大勢の人と出会い、沢山の名句を残しています。

  『奥の細道』はこの旅をもとにした紀行ですが、事実そのままの記録ではありません。旅で体験した事実を素材としながら、それに虚構を加えた創作なのです。そういう視点で、『奥の細道』をご一緒に読んで行きたいと思います。

 

ダイジェスト動画

 

セット講座

  • 第1回 芭蕉と『奥の細道』

  • 第2回 発端・旅立ち・草加

  • 第3回 室の八島・日光・那須野

  • 第4回 黒羽、雲巌寺、殺生石・遊行柳

  • 第5回 白川の関、須賀川、浅香山・信夫の里

  • 第6回 飯塚の里、笠島、武隈の松

  • 第7回 宮城野、壺の碑(いしぶみ)、末の松山・塩竃

全セット ¥11,550円

講師

(国文学者・東京大学名誉教授)

東京大学大学院修了。実践女子大学・名古屋大学・東京大学・二松学舎大学を経て現職。江戸時代の小説や俳諧を専門とする。著書に、『秋成研究』(東京大学出版会)、『雨月物語の世界』(ちくま学芸文庫)、『上田秋成全集』(共編、中央公論社)、『建部綾足全集』(共編、国書刊行会)、『蕪村全集』(共著、講談社)、『名歌名句大事典』(共編、明治書院)ほか多数。

注意事項

※本動画は、ストリーム配信によるオンデマンド講座です。受講生の皆様は、購入時にご案内する動画URLにアクセスし、バスワードを入力してご視聴ください。

※パスワード等は、PDF形式のファイルにて配布いたします。

※視聴期間は、2024年10月1日~2025年3月31日まで。

 

 

内容紹介

 

〇第1回 芭蕉と『奥の細道』

 芭蕉の俳人としての略歴と、5つの紀行文について触れてから、その中でももっとも優れた『奥の細道』について解説します。一番最初の草稿である「芭蕉自筆本」(「野坡本」「中尾本」ともいう)から芭蕉が最後まで所持していた定稿本である「西村本」まで、『奥の細道』の諸本をざっと紹介し、また『奥の細道』の執筆時期について簡単に説明した上で、『奥の細道』が事実と虚構をないまぜにした一種の私小説であることを述べます。

 

〇第2回 発端・旅立ち・草加

 『奥の細道』の旅を思い立った経緯から、深川の草庵を出発し、第一泊目の宿場である草加に着いたところまでを読んでいきます。冒頭の「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」にこめられた芭蕉の思想にふれ、また『曾良随行日記』によれば、一泊目は草加ではなく、ずっと先の春日部まで行って泊まっているなど、『奥の細道』には随所に文学的な虚構がほどこされていることを説明します。

 

〇第3回 室の八島・日光・那須野

 室の八島では、その地に伝わる、木の花咲耶姫(このはなさくやひめ)とコノシロの伝説について、また日光では、そこで実際に詠まれた「あらたふと木の下暗(やみ)も日の光」の句が、『奥の細道』では「あらたうと青葉若葉の日の光」と改作された理由について、那須野では、『奥の細道』の中でもっとも愛らしい登場人物である「かさね」という名の少女の描写について、それぞれ丹念に見てゆくことにしましょう。

 

〇第4回 黒羽、雲巌寺、殺生石・遊行柳

 14日間にわたって滞在した黒羽の条では、犬追物の跡や玉藻の前の古墳、那須の与一にゆかりの社寺など、多くの古跡を見たことが記されていますが、雲巌寺の条では一転して、芭蕉の参禅の師である仏頂和尚の山居修行の跡一つに焦点が当てられています。また殺生石・遊行柳では、能の舞台でもある有名な二つの旧跡に触れています。新古さまざまな名所旧跡を、あるいは軍記の一節を引用し、あるいは知人の和歌を掲げ、あるいは能の場面を背景とするなど、巧みに書き分けていることをじっくり味わいたいと思います。

 

〇第5回 白川の関、須賀川、浅香山・信夫の里

 奥州の入口である白河の関。そこに行ったふりをして歌を詠んだ能因や、その能因に敬意を表し、冠装束を正して通った国行ら、昔の風狂人の面影に心惹かれながら、芭蕉もこの関の跡を越えます。次の須賀川では、それら風狂の人とは対照的な、求道的隠者俳人の可伸に心打たれる芭蕉の姿が描かれています。浅香山・信夫の里では、伝説に出てくる花がつみ、しのぶもぢ摺りの石、黒塚の岩屋が、今では分からなくなっていたり様変わりしていたりするのを知った芭蕉の、やや呆然としたような書きぶりが印象的です。

 

〇第6回 飯塚の里、笠島、武隈の松

 飯塚の里では、源義経の側近でともに非業の死をとげた佐藤継信・忠信兄弟やその嫁の古跡に涙します。東北や北陸に残る、源平の哀史の中心人物である義経と木曽義仲の古跡めぐりという、『奥の細道』の旅の隠れたモチーフの一つが、初めて登場する場面です。笠島では藤原実方の墓が探し当てられず、逆に武隈の松は何度も植え替えられながらも、昔を偲ばせる姿で残っていますが、その対照的なあり方の描写を味読しましょう。

 

〇第7回 宮城野、壺の碑(いしぶみ)、末の松山・塩竃

 画工加右衛門の古跡考証の功もあってでしょうか、歌枕の宮城野の萩の場所に立つことができた芭蕉は、さらに多賀城で坂上田村麻呂が建てたという壺の碑(実は多賀城碑)を、塩竃明神で和泉三郎が寄進した宝燈を見ます。昔の面影をしのぶことができないほど荒廃した名所旧跡が多い中、この金石でできた碑と宝燈は文字通り不朽の存在で、田村麻呂や和泉三郎の逝去の後も少しも姿をかえることがないことに、彫られた文字を見ながら落涙するほど感激する芭蕉の姿が胸を打ちます。